2012年09月25日
『見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、 人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである。』黙示録21:3,4
この聖書の言葉は、ホスピス病棟(緩和ケア病棟)で、患者さんが亡くなった時、病室でご家族と共に行う「お別れ会」でよく朗読する聖書の言葉です。
死に直面することは、どんな時でも悲しいものです。しかし、聖書はそんな悲しみの中でも希望を指し示しています。死に直面してなお「希望」があると。それが人生最大の悲しみであったとしても、その先に希望を垣間見ることができるというのです。
病院のチャプレン(病院付き牧師)の仕事には、「バイブルアワー」といって、毎日患者さんと讃美歌を歌い、聖書を読む時間があります。讃美歌を歌う声に引かれて訪れる方がいるかと思えば、聖書を全く知らずにぶらっと立ち寄る方もおられます。色んな方が来られる中で、何人かのホスピス病棟の患者さんも必ず来られるます。この方々は、余命いくばくもない時を受け止めつつ、残された大切な日々を過ごしています。そして毎日、この時間を楽しみにして来られるのです。
彼らは、死の先にある希望を見ています。私も彼らの明るさと、その希望を共に分かち合う中で、日々慰められています。その希望とは、神様が一人一人の心をご存知で、慰めて下さり、こんな自分でさえも愛して下さっていること。そして、誰も自分の気持ちを分かってくれず、離れていくときも、
『わたしは決してあなたを離れず、あなたを捨てない』ヘブル人への手紙13:5
という愛の言葉に大きな励ましを受けているのです。今日も、神様からの希望と愛によって本当の平安を得たいと思います。
『このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。』Ⅰコリント人への手紙13:13
2012年09月21日
『2:1幾日かたって、イエスがまたカペナウムにお帰りになったとき、家におられるといううわさが立ったので、2:2多くの人々が集まってきて、もはや戸口のあたりまでも、すきまが無いほどになった。そして、イエスは御言を彼らに語っておられた。2:3 すると、人々がひとりの中風の者を四人の人に運ばせて、イエスのところに連れてきた。2:4ところが、群衆のために近寄ることができないので、イエスのおられるあたりの屋根をはぎ、穴をあけて、中風の者を寝かせたまま、床をつりおろした。2:5イエスは彼らの信仰を見て、中風の者に、「子よ、あなたの罪はゆるされた」と言われた。 』 マルコによる福音書2:1-5
によるにる」」』
この話にとても慰められます。それは、イエス様がこの中風の人を癒されたのは、「本人の信仰が立派だったからではない」という点です。本人のことは全く関係ないように見えます。ただ友人四人の熱心さ、体の不自由な中風の友を救いたいという思い。そして、「イエス様に見てもらえさえすれば何とかして下さる」という純粋な信仰を見ておられました。
神学者のボンヘッファーは語っています。「私たちは、他のクリスチャンの助けを必要とします。もし必要ないというなら、その人はクリスチャンではありません。」
これは、まだ神様を受け入れていない私たちの家族や、大切な人たちにも言えることです。その人たちが神様を受け入れていないことで私たちは思い悩みます。しかし、イエス様がその人のためにまず祈って下さり、見守っておられます。そして私たちが「四人の友人」のように主に求めるとき、神様の力が臨みます。パウロとシラスはこう宣言しました。
「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます 。」
教会は、失敗できない社会の中で唯一、ホッと一息つける場所です。ありのままの姿で受け入れられる場所です。そして罪そのものを十字架で帳消しにして下さった「真の友イエス・キリスト」だからこそ、私たちは彼の前で本当の意味で心安らかに生きることができるのです。あなたも、そのような心安らかな生き方をしてみたいと思いませんか。
2012年09月20日
本日より、セブンスデーアドベンチスト教団 AMCキリスト教会のホームページがスタートいたしました。今後、ここから様々な情報を発信していきたいと思いますので、皆様よろしくお願い致します。